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中臣鎌足

中臣鎌足、

大化の改新最大の功労者で後の藤原氏の基礎を作った藤原不比等の父として有名な人物です。毎年秋に蹴鞠祭がある談山神社にゆかりがある人物でもあります。

 

初めは中臣鎌子と名乗っていましたが、後に鎌足と改名します。生まれは現在の奈良県橿原市や明日香村もしくは茨城県鹿嶋市とする説もありはっきりしていません。

 

祭官の家に生まれましたが、若くから中国の書物に関心を持ち、代表的な兵法書の六韜を暗記したと言われています。遣唐使として唐に渡っていた南淵請安が帰国し塾を開くとそこで儒教を学びました。その時一緒に学んだ蘇我入鹿と共に秀才であったと伝えられています。後に乙巳の変で敵味方となる蘇我入鹿とはこの時は机を並べて共に学ぶ学友でした。

 

当時の政治情勢は摂政として政治を司っていた厩戸皇子(聖徳太子)が亡くなり蘇我氏の専横が甚だしいものとなっていだ時期でした。元々学友だった入鹿と鎌足が親しかったかどうかは分かりませんが、蘇我氏の専横が深まっていくなかで次第に疎遠になっていったのではないでしょうか。乙巳の変の一年前、644年に鎌足は家業の祭官を継ぐように言われますがこれを固辞しています。

 

蘇我氏の専横を快く思っていなかった鎌足は蘇我氏体制打倒の意志を固めクーデターの計画を密かに進めていきます。リーダーとなるべき人物を探すべくまずは軽皇子(のちの孝徳天皇)に近づきますがその器量に物足りなさを感じ、次に中大兄皇子に近づくことを試みます。

日本書紀に法興寺の打毬をしている時に脱げた沓を拾い上げて捧げたとあります。これがきっかけになって二人は親しくなっていきます。中大兄皇子も蘇我氏の専横を快く思ってなかった事もあり二人の仲は深まっていきます。共に南淵請安の私塾で学びその往復の道中で蘇我氏打倒の密議を行ったのでしょう。

更に鎌足は蘇我氏の内紛に乗じ蘇我一族の長老である蘇我倉山田石川麻呂を味方に引き入れます。

 

こうして着々と準備を進める鎌足に絶好の機会が訪れます。三韓の進貢(三韓の調)の使者が来日し、その儀式が朝廷で行われる事となりました。その儀式には大臣である入鹿は必ず出席するので鎌足らはこれを暗殺の絶好の機会と捉えたのです。儀式当日、入鹿も予定通りに入朝します。入鹿は猜疑心が強く常に剣を帯刀していましたが、この日は道化が言い含めて剣を外させていました。儀式が始まり蘇我石川麻呂が上奏分を読んでいる間に入鹿を斬る役目の二人が入鹿を襲う手筈となりました。

しかし、実行役の二人が恐怖のあまり足が前に出なかったため中大兄皇子が自ら躍り出ました。すると実行役の二人も飛び出して入鹿に斬りつけました。その後入鹿は手傷を負いながらも天皇に近づき「私にどんな罪があるというのでしょう」と訴えかけました。すると中大兄皇子は「母上、入鹿は皇族をないがしろにして皇位を奪おうとしております。」と訴えかけると、皇極天皇は奥に退いてしまいました。

 

入鹿の殺害に成功した中大兄皇子と鎌足ですが、まだ入鹿の父蝦夷が健在であったため法興寺(現在の元興寺、飛鳥から奈良に移転後改名)に入り軍備を固め戦闘に備えます。しかし、ほとんどの諸皇族、諸豪族は中大兄皇子に従ったため、蘇我家の軍勢は逃げ去ってしまい、これに絶望した蝦夷は自らの手で屋敷に火を放ち自殺します。こうして強力な権力を保っていた蘇我氏宗家は滅びます。しかし、蘇我氏の血脈はその後も続いていく事になりますがそれはまた次の機会に。

 

乙巳の変後、皇極天皇は軽皇子に譲位します。孝徳天皇の誕生です。中大兄皇子は皇太子となり鎌足は内臣となります。内臣、うちつおみと読みます。左大臣や右大臣、大納言などの常設の官職ではなく特別な時に置かれる天皇の最高顧問的な役職でした。この時の実質的な権力者は中大兄皇子であったので中大兄皇子の相談役的な役職であったと言えます。なぜ鎌足をこのような特別職につけたか。おそらくは中臣家が神事を司る家柄であり政治的実績に乏しく、常設の官職に安部氏、蘇我氏などの他の豪族より上の官職につけると反感を買う恐れがあったためと思われます。しかし実質的には中大兄皇子と鎌足の二頭体制が出来上がったといえます。

 

蘇我氏宗家を葬り去る事に成功した中大兄皇子と鎌足は大化の改新と呼ばれる改革を断行します。

男女の法の制定、左大臣・右大臣・国博士の新設、私地私民の売買の禁止、飛鳥から難波長柄豊崎宮への遷都など様々な改革が進められました。翌年には改心の詔も発布します。詔の内容は大きく4つ、

私地私民制から公地公民制への転換、首都の設置、班田収授法の実施、租庸調という新しい税制の方向性といった内容です。全体としてはヤマト政権の土地・人民支配体制(氏姓制度)を廃止して、天皇中心の中央集権体制、律令国家の形成を目指すものでした。

 

このような急速な改革は保守派との対立を生みます。しかし、保守派の中心人物の阿部内麻呂の逝去、

蘇我石川麻呂が謀反の疑いをかけられ自害と次々と亡くなり鎌足が更に勢力を伸ばす事となります。

この事に前後して古人大兄皇子、有間皇子を謀反の嫌疑をかけて葬り去っています。更に中大兄皇子は孝徳天皇と不和になり難波宮を引き払い飛鳥に戻ってしまいます。鎌足をはじめとする群臣もこれに従ったため孝徳天皇は孤立し難波宮で憤死してしまいます。これらの事が政情不安を招きだんだんと思い切った改革が出来なくなっていきました。

 

孝徳天皇が崩御しても中大兄皇子は即位せず、皇極天皇が再び皇位につき斉明天皇となりました。斉明天皇在位時に外交的な大事件が起きます。親交が深かった百済の滅亡です。滅亡後に百済の遺臣からの要請で中大兄皇子と鎌足は朝鮮への派兵を決断します。白村江の戦いです。しかし、派遣した倭国軍は海上戦、陸上戦共に新羅、唐の連合軍に大敗し、各地で戦っている倭国軍と亡命を望む百済遺民を船に乗せてやっとのことで帰国しました。この事は軍事外交の責任者であった鎌足のおおきな心の傷となります。

 

数年後狩りに行った際に落馬し天智天皇(中大兄皇子の即位後の名称)が鎌足を見舞った際に「私は

軍略で貢献出来なかった」と嘆いたとされています。これは白村江の戦いでの大敗の責任を痛感していたのでしょう。その後天智天皇から大織冠、藤原の姓を賜り、内大臣に任ぜられその年に亡くなりました。享年56歳。

 

死後、桜井の談山神社に祀られました。中大兄皇子と親密になるきっかけとなった打鞠の会が今の蹴鞠となったかは定かではありませんが、その故事にちなんで毎年開かれる蹴鞠祭が11月3日に談山神社で行われます。紅葉も見頃になりました。鎌足と中大兄皇子の出会いの場所、談山神社に機会あればお訪ねになってはいかがでしょうか。

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