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南朝の系譜

前回、南朝の成り立ちについて書きましたが、南朝は後醍醐天皇が崩御した後も続きます。
皆様は南朝=後醍醐天皇というイメージをお持ちではないでしょうか。しかし南朝はその後、三代50余年続いたのです。

 

後醍醐天皇の後は、遺志を継いで憲良親王が後村上天皇として即位します。後村上天皇が即位した時期、南朝は大変な状況でした。

太平記に出てくる南朝方の名だたる武将、楠木正成、新田義貞、北畠顕家などは戦死して、この世になく、頼りに出来るのは北畠顕家の父、北畠親房くらいでした。しかし、このような逆境にもめげる事なく、畿内各地に綸旨を出し南朝の勢力が健在である事を内外に示します。
しかしこの後、勢力回復を図った後村上天皇にさらに事態悪化する事件が起こります。吉野が尊氏方の高師直に襲撃され避難を余儀なくされ、南朝勢力は賀名生に移ります。このまま南朝勢力は衰退の一途をたどるものと思われましたが、足利家の内紛(観応の擾乱)が起こり南朝に勢力回復の機会が訪れます。
簡単にいうとこの内紛は足利尊氏と足利直義の兄弟喧嘩で双方が戦いを有利にしたいとの思いで、先に直義が後に尊氏が、それぞれ南朝に降伏します。尊氏が南朝に降伏したもう一つの要因は、足利直冬(直義の養子で尊氏に実子)が直義方として九州で勢力を伸ばしていた事もあります。そのため、尊氏は鎌倉に直義、賀名生に南朝、九州に直冬と3方面に敵を抱える事となり南朝に降伏するという思い切った策を取らざるを得なかったのです。

尊氏の降伏はかなり南朝方に遜ったものでした。例えば、当時元号は北朝、南朝がそれぞれ別のものを使用していましたが今後は南朝の元号を使用するなど南朝に圧倒的有利なものでありました。このようななりふり構わない尊氏の行動に南朝方は驚き、そして増長します。北畠親房を中心に京都、鎌倉の尊氏の勢力を一掃することを画策します。しかし、そもそも尊氏の降伏は直義を倒すための窮余の措置であったため、直義方を破り直義が病没(尊氏が毒殺したとも)すると、再び南朝方は尊氏と争う事になります。
南朝の北畠親房は、京と鎌倉を南朝の手に取り戻す事を画策します。南朝方は尊氏の征夷大将軍を解き、宗良親王をその任に付け、宗良親王を奉じて南朝方は鎌倉に進軍します。
直義方を駆逐して鎌倉に留まっていた尊氏は、これを迎え撃ちますが、双方多大な被害が出たため尊氏は一旦武蔵国まで兵を引きます。
南朝方は鎌倉を占領しますが、武蔵国で尊氏に相次いで敗れ鎌倉を維持する事が出来ず、宗良親王は信濃国に落ち延び鎌倉は再び尊氏の手に渡ります。尊氏は、しばらく鎌倉に留まり関東の情勢を鎮める事に注力したこともあり、以後鎌倉が南朝方に渡る事はなく関東での南朝方の勢力は大きく衰退しました。

一方、京でも北畠親房の指揮で足利義詮(よしあきら、尊氏の息子で2代将軍)と七条大宮付近で激突、義詮を駆逐し入京を果たします。この時、北朝の光厳・光明・崇光三上皇と皇太子直仁親王を拉致し、賀名生に移します。義詮は一度近江に逃れますが、軍勢を立て直しひと月ほどで京を奪還します。
勢いに乗った義詮は、仮御所を男山八幡に移していた後村上天皇を攻めます。二カ月に渡り包囲された南朝方は持ちこたえる事が出来ず、後村上天皇は男山八幡を脱出、男山八幡は陥落します。

こうして尊氏方と南朝方の和睦は破談となり北朝は再構築されます。その後、楠木正成の子正儀が、山名時氏と共に京を攻め、入京を果たしますが、これもひと月ほどで奪還されます。この頃に南朝の大黒柱であった北畠親房が亡くなります。これにより南朝方の勢力は後退します。
こうした状況にもめげず、親房が亡くなった翌年、南朝方の足利直冬(直義の養子で尊氏の実子)と山名時氏が再び入京を果たしますがこれもひと月ほどで奪還されています。このようにこの時期、京は南北朝勢力が目まぐるしく奪い合った時期でしたが南朝方は維持する事は出来ませんでした。

この数年後、足利尊氏が亡くなります。しかし、2代将軍となった足利義詮は南朝方への攻勢を弱める事はありませんでした。
そもそも尊氏率いる北朝方が、南朝に降伏したのは直義と不和となり、それに加えて直義の養子 直冬が九州で勢力を伸ばし、3方面に敵を抱える事になった為です。しかし、直義は亡くなり、直冬も尊氏が亡くなって数年で北朝方に駆逐されたため、南朝方は北朝方とのガチンコ勝負をしなければならない厳しい状況となりました。

このような状況下でも南朝方は降伏してきた細川清氏の協力を得て、再度京都奪還します。しかし、またしても維持する事は出来ませんでした。その後、瀬戸内海の水軍と傘下におさめ西日本中心に勢力の回復を図りますが、山名氏、大内氏などが次々と北朝方に寝返りで勢力の衰退したため、以前拉致した3上皇を返還し、融和姿勢も見せます。

数年後、足利義詮は亡くなり義満が3代将軍となり、約1年後に後村上天皇が崩御し、長慶天皇が即位します。
この時期、南朝方の楠木正儀と北朝方の細川頼之は独自路線で和睦交渉を進めています。しかし、長慶天皇自身が北朝方に対して強硬的であったため、この和睦交渉は頓挫し楠木正儀は北朝方に投降してしまいます。
その後しばらく対決姿勢が続きますが、比較的強い勢力を保っていた九州の南朝方が駆逐されると再び和睦気運が強まります。その後強硬姿勢だった長慶天皇から後亀山天皇への譲位が行なわれると更に和睦へと舵が切られる事になります。長慶天皇はそもそも即位していなかったという説もあります。

3代将軍足利義満は、武家勢力の統率と南朝との和睦交渉を平行して行っていました。明徳の乱で強い勢力を持っていた山名氏を弱体化させ武家勢力の統率に目途がつくと、南朝との和睦交渉を本格化させます。南朝と領地が接していた大内義弘の仲介によりついに南北朝合一が成立します。南北朝分裂から約60年の月日が流れていました。

南朝は、後醍醐天皇のインパクトが強くて崩御後は、ほぼ消滅してしまった印象がありますが、実際は行幸を行ったり、京都に何度も軍を進めたりとかなり活躍していました。
私自身もこの文を書いて改めて南朝の命脈は後醍醐天皇の次世代の人々に受け継がれていた事を改めて知る事が出来ました。皆様もお時間あれば南朝ゆかりの地、吉野、賀名生などをお訪ねくださいませ。

吉野山観光協会HP

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