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南朝の成り立ち

日本歴史上、朝廷が二つ存在する時代がありました。南北朝時代です。

南朝と聞き、最初に浮かぶのは後醍醐天皇ではないでしょうか。しかし、南朝自体は後醍醐天皇の死後も続き、南北朝が再び一つになるのは後醍醐天皇の孫の後亀山天皇の代になってからです。後醍醐天皇が亡くなって50余年の月日が流れていました。

南朝の事をお話しする前に南朝がなぜ出来たのかを少しお話ししたいと思います。
簡単に言ってしまえば、後醍醐天皇が足利尊氏との政争に敗れ、京都から吉野に逃げてきて、朝廷を作ったからですが、それではなぜ南北朝に分かれてしまう事なったのか。

後醍醐天皇が即位した当時、天皇家が二派に分かれて交互に即位するという異常事態に陥っておりました。なぜ、二派に分かれてしまったのかというと、それは鎌倉時代後期、後嵯峨上皇の二人の息子の後深草天皇と亀山天皇が上皇の死後、お互いの系統から天皇を出そうと画策し鎌倉幕府(以後幕府)の介入などでお互いの系統から交互に即位するという事になったからです。
この二つの系統がのちに南北朝に分かれます。この両統迭立(りょうとうていりつ)はかなりの政治混乱を招き、朝廷の権威は失墜します。これにより多数の訴訟が発生し、それを上手く裁けなかった幕府への不満は高まります。

このような状況下で即位したのが後醍醐天皇です。後に鎌倉幕府を倒す事になりますが、なぜ後醍醐天皇が討幕を考えるようになったのでしょうか。後醍醐天皇は後宇多天皇の第二皇子で、第一皇子の兄である後二条天皇の皇子邦良親王が成長するまでの中継ぎ的要素が強い天皇でした。しかし、後醍醐天皇は中継ぎで甘んじるような人物ではなく、邦良親王を時期天皇と認定している幕府に強い不満を抱くようになりました。こうした背景があって後醍醐天皇の考えは討幕へとシフトしていきます。

即位当初は、父の後宇多上皇が院政を行っていましたが数年で院政を停止し、自ら親政を行うようになります。自らの息子を後継者にしたいと考えた後醍醐天皇は親政を行うようになって数年後、討幕計画が発覚します。「正中の変」です。この時、幕府は後醍醐天皇を罰することなく近臣の日野資朝らを処分するに留めました。しかし、後醍醐天皇はその後も討幕を志し、南都や叡山の寺社勢力に接近します。しかし、自らの系統の大覚寺統の公家達の大半は邦良親王を支持し、もう一つの系統持明院統や幕府も邦良親王を支持したため、後醍醐天皇は次第に窮地に追い込まれます。
その後、邦良親王が亡くなり、持明院統側の皇子が皇太子に立てられると幕府からの譲位の圧力は強まります。
こうした状況の中後醍醐天皇は再度の討幕計画をたてますが、側近 吉田定房の密告により露見し、身辺に危険が及んだため三種の神器を持って京から脱出し挙兵しました。
笠置山に籠り戦いますが幕府の大軍の前に敗れ捕えられます。後醍醐天皇は隠岐に流されます。世にいう「元弘の変」です。
後醍醐天皇が流されている間も皇子の護良親王、楠木正成、赤村円心などの反幕府勢力の活動は続きます。そして流された翌年には隠岐を脱出し、幕府方から寝返った足利高氏、新田義貞などの協力を得て鎌倉幕府を滅ぼします。

後醍醐天皇は帰京後、自らの退位を否定し、再び皇位につきます。幕府、摂関を廃し建武の新政を開始します。後醍醐天皇は平安時代の醍醐天皇時代の政治を理想とし、強力な天皇専制を目指します。
しかし、一旦、武家中心の世になったものを平安時代天皇中心の政治に戻すのは無理があり、さまざまな問題が噴出します。性急な改革、不公平な恩賞、ころころ変わる法令などで混乱します。
それによって起きた大量の訴訟を裁ききれず、権威は瞬く間に失墜します。
さらに追い打ちをかけるように大内裏の造営に着手したため経済的にも逼迫します。一番いけなかったのが、武士の土地所有権を否定したため、武士の不満が後醍醐天皇を中心とする朝廷に向いてしまいました。その不満がやはり武士には武家の頭領が必要だという考えにつながり、足利尊氏(後醍醐天皇の御名の尊治の一字を賜って高氏から改名)に武士達の期待が集まります。

最初は、後醍醐天皇への忠誠を捨てきれなかった尊氏ですが、自身を征夷大将軍にという度重なる要求が受け入れられず、要職にも就けなかった事もあり尊氏自身、不満を募らせていきます。
その後、北条氏残党の反乱により鎌倉が一時占拠される事件が起こると後醍醐天皇は尊氏に反乱鎮圧を命じますが、この時も尊氏が征夷大将軍の職を望んだため、ならば京を動くなと命じますが、尊氏はその命を聞かず鎌倉に反乱鎮圧に向かいます。
尊氏は反乱を平定し鎌倉を奪還します。その後、度重なる後醍醐天皇の京への帰還命令を聞かず尊氏は鎌倉に留まり武士たちに勝手に恩賞を与えはじめます。ここに後醍醐天皇と足利尊氏は袂を分かつ事になります。
ただ、尊氏は後醍醐天皇の政権を打倒しようと考えていたわけではなく、独自の武家政権を築こうとしていました。しかし、その動きを後醍醐天皇が許すはずもなく、尊氏討伐の命が下ります。尊氏は剃髪し許しを乞いますが、各地で弟直義をはじめとする足利方が破れるなか、彼らを救うためについに尊氏は後醍醐天皇に叛旗を翻します。
尊氏は天皇方の軍勢を破り入京を果たし、後醍醐天皇は比叡山に退きます。一旦は破れた天皇方ですが、新田義貞、楠木正成などの活躍で再び京を奪い返します。尊氏は一旦九州に逃れ、味方を募り再び京に向けて進軍、湊川で天皇方と激突します。この湊川の戦いで天皇方は敗れて尊氏は再び入京を果たします。後醍醐天皇も比叡山に逃れて抵抗しますが、最終的には尊氏との和睦に応じ三種の神器も足利方に引き渡されます。
後醍醐天皇は廃位され幽閉されますがひそかに脱出し、足利方に渡した三種の神器は偽物であると主張して、吉野に自らが主宰する朝廷を開きます。ここに二つの朝廷が誕生し南北朝時代が幕を開けました。

後醍醐天皇は吉野を仮の御所とし、京の奪還を試みます。各地に皇子を派遣し北朝方と戦いを挑みますが、劣勢を覆す事は出来ないまま吉野の地で崩御します。
後醍醐天皇の意志は後村上天皇へと引き継がれ、南北朝の動乱は50余年続くことになります。

後醍醐天皇崩御後の南朝のお話また後日に。

後醍醐天皇陵は吉野の如意輪寺にあります。
9月27日 10時~ 如意輪寺にて後醍醐天皇御忌(ごだいごてんのうおんき)  が行なわれます。
後醍醐天皇の御命日に御陵の正辰祭に御参列の後、本堂に於いて御忌法要が執り行われ、普段非公開の本堂が特別拝観できます。秘仏ご本尊如意輪観世音菩薩と後醍醐天皇ご自作の木像を同時に拝めるのは、この日のみ。午前は正辰祭に参列後、本堂において御忌法要、午後は、回向法要後、本堂において法話が行われます。
秋のはじまりに訪れる吉野の山も、心に残る景色となることでしょう。
ぜひ、おでかけくださいませ。

如意輪寺HP

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