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奈良時代を代表する女性 光明皇后

興福寺は、光明皇后の祖父 藤原(中臣)鎌足が夫人の病気平癒を願って、現在の京都市山科区に建立した山階寺(やましなでら)が前身とされ、のちに藤原京に移転し藤原不比等が平城京の遷都に伴い現在地に移転しました。
『平成再建――興福寺中金堂落慶』の中で冒頭、多川貫主の挨拶に「かつて、ある識者が公園的形状の当山境内を総覧して、_____興福寺には、信仰の導線がない。と、いわれたことです」と書かれてあり、信仰の中心そのものである中金堂再建に向け、強い想いで取り組んでこられたことが伝わってきます。
そして迎えた2018年10月7日。澄み渡った青空に広がる法要の音とキラキラと舞う散華。天平時代は、こうであったかと思わせる華やかで荘厳な空間が本当に突然と広がりました。今、この時代に目の当りに出来たことを幸せに感じずにはいられませんでした。

さて、今回のブログでは、そんな興福寺に関わる光明皇后について述べたいと思います。

日本の長い歴史の中で光明皇后ほど政治に影響を及ぼした女性はいないと思われます。国分寺、国分尼寺建立の進言、東大寺建立の進言、施薬院、悲田院の設置、興福寺、新薬師寺、法華寺などの創建、整備と多岐にわたり功績を残しています。特に法華寺は光明皇后が開いたお寺で日本の総国分尼寺とされ光明皇后が最も深く関わった寺院のひとつといえます。また、聖武天皇と共に書もたくさん残しています。代表作に『楽(がっ)毅論(きろん)』や『杜家(とか)立(りっ)成(せい)雑書(ざっしょ)要略(ようりゃく)』があり共に正倉院に収められています。歌も詠まれて万葉集にも数首記載があります。

光明皇后の生涯は大きく分けて4つに分かれると考えられます。「聖武天皇が即位する前」「聖武天皇即位後の長屋王の変から兄の藤原四兄弟の死まで」「その後、聖武天皇在位期間のうち聖武天皇崩御まで」「聖武天皇崩御以後」で構成されていると思います。
光明皇后が結婚したのは718年くらいとされていますが、おそらく、もう少し前で婚約は幼少の頃に取り決められたことでしょう。まだこの時期は父 不比等の勢力基盤は万全ではなく、光明子(光明皇后)は藤原氏の権力拡大のために皇太子を生むために送りこまれたので、そのプレッシャーは相当なものだったのではないでしょうか。入内までは不比等邸で養育されていたようです。
聖武天皇即位後の序盤の時期、長屋王政権下では藤原氏より皇族の力が強かった事もあってか光明子に目立った動きはありません。もっとも父 不比等がまだ存命であったことと、兄が4人もいたら若い光明子は政治に口をはさむなどという事は難しかったでしょう。不比等は晩年、光明子の立后を強く願っていましたが、当時の皇后は天皇に、もしもの事があった場合中継ぎ的なかたちで天皇になる可能性があったため皇族以外は皇后にはなれませんでした。ちなみに聖武天皇の前の天皇は元正天皇、その前は元明天皇で、いずれも女帝で聖武天皇が成長するまでの中継ぎでした。不比等は光明子の立后がかなわぬままこの世を去りますが、その野望は息子たちの藤原四兄弟に引き継がれます。この頃の光明子はおそらく父や兄から早く元気な皇子を産んでくれよと日々プレッシャーを与え続けられていたものと推察されます。そのプレッシャーから解放される日がやってきました。基皇子の誕生です。私個人の見解ですが光明皇后はこの辺りが幸せの絶頂であった気がします。しかしその幸せも長く続かず産まれた翌年には基皇子はわずか1歳で亡くなってしまいます。

父 不比等の死後は皇族筆頭の長屋王が政権の中枢にいましたが、藤原四兄弟も巻き返しの機会をねらっていました。そして、長屋王に謀反の疑いをきせて葬り去る事に成功します。世にいう長屋王の変です。長屋王は基皇子が亡くなるよう呪詛した疑いをかけられたようです。立后の最大の障壁であった長屋王がいなくなった事により光明子は皇后となりました。皇族以外で皇后になった最初の例です。これにより光明皇后となりその子が皇太子になる事が確実となりました。光明皇后への再び男子をという声は更に強まっていったものと推察されます。
この数年後に政治の中枢にいた兄 藤原四兄弟が全員病死する惨事に見舞われました。この頃から光明皇后の政治的発言が目立つようになりました。この頃は天災や疫病が多発したこともあり聖武天皇は仏教により深く帰依していった時期でもあります。また遷都も繰り返されました。
この時期、大仏建立の詔と国分寺、国分尼寺の建立の詔が出ていますが、これは光明皇后の進言が強く反映されているもの思われます。最終的に官民の反発が強く都が平城京に落ち着いた直後に東大寺での大仏建立の詔が出されています。政治は、この頃から橘諸兄が担う事となります。

藤原氏勢力は一時後退していましたが、藤原仲麻呂の台頭により盛り返す事になります
藤原仲麻呂は藤原四兄弟の一人武智麻呂の息子で、光明皇后から見れば甥にあたります。仲麻呂は巧みな配置転換などで橘諸兄の勢力を弱めていきますが、これには光明皇后の強い肩入れがあったように思います。のちに光明皇后の後ろ盾を得た仲麻呂は橘諸兄の勢力を上回るようになり、聖武天皇が阿部内親王に譲位する頃には、事実上、光明皇太后と仲麻呂が政治の中枢となったと言えます。晩年、光明皇太后は仲麻呂をすごくかわいがったようで異例の出世をとげます。仲麻呂は非常に権勢欲が強い人物像ですが晩年の光明皇太后にその辺りが見抜けていたかは少し疑問を感じます。

こうような状況下で東大寺の大仏の開眼法要が行われました。数年後、鑑真との対面を果たし聖武上皇は崩御します。悲しみにくれる光明皇太后に聖武上皇の遺品を77忌法要後に東大寺大仏に献納し、同寺正倉に収蔵するのを進めたのが仲麻呂と言われています。これが今現在の正倉院展に繋がっています。

さて、この続きは次回に。
いよいよ、中金堂の一般参拝がスタートしました。11月11日(日)までは、ライトアップも行われています。よみがえった天平の景色を見に、どうぞ奈良へお越しくださいませ。
お待ちしております。

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